■ 武士の世の中 ■

山につくられた城

 今から500年ぐらい前の城は、けわしい山に、回りの地形をじょうずに生かしてつくられました。下田にあった深根城(堀之内)と下田城(鵜島城:現在の下田公園内)は、そのころの城です。城は、石がきをめぐらし、堀は、空堀といって水はなく、天守閣も、まるたで、物見やぐらを組んだぐらいもので、今、日本各地にある城のような、りっぱなものではありません。ふだんは別のところに住み、戦いの時、ここにたてこもって、敵を防いだのだそうです。このふたつの城をめぐって、下田付近を治めた人々は、次々と、変わっていきました。
 この時代を戦国時代といって、大名が、互いに争っていました。このころ、伊豆の国は、足利政知の領地でした。1491年(延徳3年)、伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)は、伊豆の国を領地にするために、深根城をせめ落としました。城を守っていたのは、足利氏に味方していた関戸播磨守信吉でしたが、城の中にいた人は、一人残らず殺されたと、言われています。今でも、稲梓の堀之内には、矢所・城山屋敷・上之殿などの地名が、残っています。

こうして、伊豆の国は、北条氏の領地になりました。やがて、かずかずの大名を従えた豊臣秀吉は、天下統一のために、北条氏とあらそうことになり、小田原城をせめました。北条氏は、清水康英を下田城の城主にして、1590年(天正18年)、豊臣軍の海軍が小田原にせめこむのを、防がせました。

 清水氏は、50日間も、城を守りつづけたそうですが、戦いにやぶれて、城は、秀吉方(長曾我部元親)の手に、落ちてしまいました。

 北条氏が滅びると、下田は、徳川家康の家来の戸田忠次によって、治められることになりました。

今でも、城山公園(下田公園)にいくと、空堀のあとや、本丸のあった天守台もみられ、また、馬場ガ先の名も残っています。
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