■御番所の置かれた下田港■

 家康は、政治の実権をにぎると、江戸(今の東京)に幕府を開きました。江戸幕府のつづいた時代を、江戸時代といいます。
 江戸時代の船は、帆船(ほをあげて航海する船)でしたので、風向きが悪いと、途中の港にはいって、風待ちをしなくてはなりませんでした。江戸に向かう船は、波のあらい遠州灘を、無事にのりきって、下田港にはいると、ほっとひと息しました。ところが、相模灘は、遠州灘と風向きが違うことが多いので、下田港で、いく日も、風待ちをすることがありました。下田港は、江戸に出入りする船にとって、たいへんよい風待港でした。
 やがて、年貢米や特産品を、大阪と江戸に運ぶために、江戸と大阪の間を、回船(定期船)がかようようになりました。
 1616年(元和2年)、今村彦兵衛正勝が、下田奉行になり、須崎に、遠見番所を置いて、下田港に出入りする船のみはりをしました。あやしい者や武器などをつんでいないか調べるのが、番所の仕事でした。
 1623年(元和9年)に、番所は大浦にうつされました。
 1636年(寛永13年)になると、名前も船改番所(御番所)と変わって、江戸に出入りする船は、かならず、下田港にはいって、御番所の調べをうけるようになりました。このころは、とくに江戸を出ていく女の人や子どもと、江戸にはいる武器のとりしまりがきびしかったのです。
こうして、御番所の置かれた下田港は、「海の関所」の役目をしました。
日本の各地の産業の発達につれて、下田港に出入りする回船の数も、しだいにふえてきました。また、東北地方から、江戸に向かう船も、いったん、下田港にはいって、御番所の調べを受けるようになりました。
 下田港に出入りする船も増えて、一年間に三千そうぐらいにもなり、港は、大変にぎわったそうです。
 1721年(享保6年)、下田港の出入り口がせまいので、風や波が強い時は、船の出入りが危険だ、ということで、御番所は、浦賀(神奈川県)にうつされました。御番所が置かれてから、およそ百年間栄えてきた下田港は、さびれてしまいました。
 しかし、なお、風待ちのために出入りする船が多かったので、浦方御用所が置かれて、海の交通安全のための仕事をしていました。
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