■ 思い出の黒船祭(1) ■

■最初の記憶、おひげの水兵さん■

1955年(昭和30年)
 下田市銀座通りにある我が家、日新堂菓子店は、大正11年に創業以来、現在3代目を引き継いでいる。1階は自家製の和菓子、2階は喫茶を営んでいるが、私が3、4歳の頃は喫茶は1階の菓子売場の隣にくっついていて、近所の人達の社交場になっていた。当時、ホットミルク30円、おしるこ40円、ココアも40円、おばあちゃんの作るそのココアが絶妙な味で、稲梓や吉佐美からも飲みに訪れたという。幼い私も背伸びをして、おばあちゃんが手早くカカオの泡を挽き混ぜる仕草を見ていた。家は従業員や叔父達を含め10人以上の大所帯。忙しい商売家の宿命として、私は喫茶の中で、大勢のお客さんに可愛がられながらすくすくと育った、らしい。
家の2階から見たパレード
(昭和30年)
 家のまわりはどんな様子だったかというと、今とは比べものにならないほどのんびりしていた。覚えているのは夏の暑い昼下がり、村からやってきた荷馬車の馬が馬糞を振り散らしながら、舗装されていない道をゆっくりと通って行ったこと。どこかで浪曲のうなり声が聞こえていた。なぜそんなことを覚えているのか分からない。とにかく馬車に乗ってたおじさんが帽子を被っていたチビだった事、馬のお尻にハエがブンブンたかっていたことまで目に焼き付いている。浪曲は昼休みに父がラジオで聴いていたのだろう。その頃、寅蔵に凝っていたというから間違いない。

 記憶にある最初の黒船祭といえば1955年だろうか。サマーズ総領事が来賓で、戦艦『キャルベート』が入港している。また、6町村合併で新下田町が誕生した記念すべき年だ。もう一つ、子供たちは嬉しい、下田小学校の講堂が完成した。

 私はまだ4歳で、家にお煎餅を買いに来た不思議な人間たちをまじまじと見上げていた。

 色が白くて、太い腕に金色の毛がモジャモジャしていて、鼻が三角形で、目がガラス玉みたいだった。母が『ハローって言ってみてごらん』と言った。私は、小さい声でハローと言った。すると2人のセーラーはニッコリと笑って私の顔をのぞきこんだ。そのなんともいえない優しい目元は今でも忘れられない。だがとっさに1人のヒゲもじゃのセーラーが私を抱き上げてそのヒゲを頬にこすりつけた。とても怖かった。その時、母が声をあげて笑ったので私は涙をのみこんだ。不安がさっと去った後、よせばいいものをそのセーラーはもう少しサービスして抱っこのまま私を強く揺すった。とうとう私は泣き出してしまった。

 という訳で、4歳の記憶は、ワクワクドキドキと恐ろしさと水兵さんの優しさが三位一体となって残った。史料館にある百年前のペリー像、あの青筋たてた赤鬼のようなひどい顔を見るたびに複雑な思いにかられる。
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