■ 思い出の黒船祭(2) ■

空母ホーネット入港

1958年(昭和33年)
空母ホーネットが来た黒船祭はとても印象に残っている。とにかく町のどんな通りに行っても水兵であふれていた。三千五百人の乗組員、しかも潜水艦キャットフィッシュと輸送攻撃艦メリックを従えての威風堂々とした入港だった。町民はこぞって軍艦見学におしかけ、全国から船マニアがつめかけた。見学に行った近所のおじさんが「百人ぐらい入る大きな部屋に入れられたと思ったらピシャと戸が閉まり、スーッと上に浮かんで突然ガタンと止まった。戸が開いたらもう甲板にいてズラーッと白い戦闘機がならんでいたよ。」と話していたという。その部屋とはエレベーターだったことをおじさんはずっと後で知った。
 私は小学校へ入学したばかりで、軍艦には興味がなく、おこずかいをもらって祭りの出店を飛び回っていた。飴細工、金魚すくい、亀売りにヒヨコ屋、イカ焼きに焼きりんご、バナナのたたき売り、ガマの油売り。通りは子供のパラダイスだった。この日ばかりは勉強をしろと言われなかったし、怒られなかった。時々、水兵さんは子供たちに気前よくおごってくれた。綿あめや焼きそばを買ってくれた時、私たちはすぐニッコリと笑いサンキューと言った。日本でいちばん早くサンキューを覚えたのは下田の子供たちではないだろうかと、思うことがある。

 昼間はパラダイスでも夜になると通りは豹変した。ビールの匂いとバーのおねさんたちの嬌声と酔っ払った水兵の大声が入り混じった。昼間はしっかりした足取りで町を闊歩していた水兵が、急にフニャンとなって千鳥足の酔っ払いになり、まっ赤な顔をしてビール片手にホステスさんたちに抱きついているのだった。その姿は子供心にも情けなかった。

 声を張り上げて2B弾を道に投げつけるので、通行人はこわがって耳を塞ぎ、道のはじっこを歩いた。若い娘さんは走って通り過ぎるか、道を引き返すか、だった。それを見てますます水兵は面白がり、もっと打ち鳴らしては楽しんでいた。SPも日本人の警官も見ていたが知らん振りしていた。そういう光景は子供ながらにも何かがおかしいゾという小さな正義感を呼び起こした。だが当時はアメリカ万能の時代、バーによってはこのホーネットのおかげで一晩ビール二十ケースを売ったというから、仕方がなかったのだろう。

 船がビッグなら来賓のダグラス・カッカーサー・ジュニア大使がヘリコプターで鈴木町長のもとに駆けつるというパフォーマンスを演じて話題になった。

 この年はまた下田町民にとっても忘れることができない。8月12日全日空機が下田沖に墜落したのだ。保安庁、消防団、役場、町民が一体となって夜を徹して働き、遺体収容にあった。下田っ子の意気と華を見せる夏祭りは中止、と決定した。
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