■ 思い出の黒船祭(3) ■

■ ライシャワー大使とハル夫人

1961年〜1962年(昭和36年〜37年)
 昭和36年、37年と連続でライシャワー大使がお見になった。優しく教養豊かなハル夫人を伴って。お二人が漂わせていた、品性の輝き、優美で、まわりを春の香しい風で包み込むような印象は一生、忘れることができない。 ヘリコプターで空から手を振りながら下田南高のグラウンドに降り立ったライシャワーさんはスラッとした長身で、まるでゲーリー・クーパーのようだったという。外交官特有のあたりの柔らかさだけでなく、本当に日本を愛している人間だけが持つ温かい感情が、旗を振って出迎えた群衆の心をとらえた。ライシャワーさんがあれだけ日本人に愛されたのは当然だ。ライシャワーさん自信が日本そのものを、それにもまして日本女性として世界のどこに出しても恥ずかしくないハル夫人を愛していらしゃったから。
式典に参列した
ライシャワー大使とハル夫人
 
 小学校四年生の私は児童劇『黒船来る』を見に下田小学校にいらしたご夫妻の姿をありありと覚えている。旅行者のように気楽に話しかける大使は、コチコチに緊張していた子供たちの心を解きほぐした。ハル夫人は白い帽子にモスグリーンのスーツを着ていて隣の子の肩をそっと抱いた。私は少しやきもちを焼いた。カミナリ親父が日本の家庭の典型だった時代、あのようなオシドリ夫婦の姿は、私たちに良きアメリカの家庭人という印象を植え付けた。

 そして、憧れの国アメリカの、電化製品に囲まれた裕福な家を連想させた。お二人にとっては最初の国内行事だったので、どこに行っても報道陣のカメラに追われていた。玉泉寺で牛乳碑の除幕式が行われ、大使のスピーチがあった時、二世のツヨシ・マツモト民事部長がその通訳をした。ところが日本語の堪能な大使は気にならなかったらしい。「今のは、私の意図するところが正確に伝わらなかったので私が直接話します。」と言って流暢な日本語で話し始めたという。列席者は下をむいて笑いを噛み殺した。後にマツモト氏が、大使は落語に凝っていて日本語のニュアンスがわかっているから困るよ、とこぼしていたという。玉泉寺に随行した関係者の回想だ。

 また、宿泊所だった武山荘の当時のマネージャー、飯田十郎さんによれば、dawn(「あかつき」という部屋の英語名「ドーン」)をダウンと発音してしまい、ライシャワーさんにやり直しの発音練習をさせられた。英語に自信のあった飯田さんは自己嫌悪に陥ったという。

 町民にとっての一番の思い出は、旧下田小学校で行われた盆踊り大会でライシャワー夫妻が踊ったことだろう。それまで米国大使が日本の庶民と一緒に踊るなどということはなかった。ご夫妻は浴衣に着替えてお年寄りの輪の中に入って楽しんだ。「大使さんが私にお達者でって言ってくれたんだよ。冥途のみやげだよ」と嬉しそうに言っていた友達のおばあちゃん。

 ライシャワー夫妻ほど日米親善のために真心を尽くした人たちはいないだろう。
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