■ 思い出の黒船祭(4) ■

■ 中学生と水兵

1964年〜1965年(昭和39年〜40年)
 昭和39年は東京オリンピックの年。下田で東京までの直通電車、伊豆号が開通して観光客はグンと増えた。増えて大喜びしたのはいいがホテルや旅館が足りなくて大あわて。須崎を手初めに南伊豆方面に次々に民宿が作られた。

 旅館も負けじと大改造を始め、海水浴場は整備され、下田はよりスマートにおしゃれな様相を見せ始める。私は中学生になり、身体はスマートとは言いがたく、だんだん太ってきてしまったが、もう水兵におねだりして焼きリンゴを買ってもらうような子供ではなかった。金髪の若いセーラーにすれちがうと何かまぶしくて気恥ずかしさを覚える年頃になった。そして英語との出会い。こんなにリズム感あふれ、心地好く自分を表現できるものはないと思った。
軍艦見学の中学生たち
 
 その頃シナトラやサラ・ボーンの歌うバラードが好きになり、下手くそなピアノで歌ったりしていた。だから自然に、英語は私にピッタリと寄り添う親友のような存在になった。

 39年米艦プレイリーと他一隻が入港している。私は三人の友達と一緒に町の中へ出かけて英会話の練習をすることにした。まだ中学一年だったので、リスニングがさっぱりだめで、相手の言っていることはチンプンカンプンだった。だがみんな英語が好きだったので、ようし、来年は頑張ろうねと決意を固めた。次の年、四十年はだいぶ上達していた。練習相手としては、昼間から酔っ払っているような水兵のところは逃げて歩いて、なるべく近い年頃でおとなしそうなセーラーを探した。

 そしてルパータス艦に乗っていたジャック・ボースンという18歳の水兵と知り合った。オハイオ州の出身で海を見たことがないので海軍に入ったのだという。世界中の港を回れるのが楽しみだと言っていた。でも、と言って顔を曇らせた時、私たちが彼が少し酔っているのに気付いた。「この下田での休暇が終わったらボクはオキナワに行く。アメリカに帰る予定が急に変更したんだ。せっかっくママの誕生日にプレゼントも買ったのに」そう言ってしょげていた。そして、オキナワへ行ったら戦場へ送られるのではないか、それがいちばん怖い、と言った。その日の朝、私たちは日教組の先生から、ベトナム戦争の話を聞いていた。北爆が二月に始まり、北ベトナムの人々が逃げまどう様を想像した。だから特に敏感になっていたのかもしれない。目の前のジャックはまだ18歳、故郷で待っているお母さん、ベトナムへ送られジャングルで戦う彼の姿、それに連想される死.....。私たちのたくましい想像力がふくらみ始めた。

 かわいそうなジャック。そのうち誰からともなく泣き出してしまい、ジャックも泣いて合唱団のようになってしまった。電信柱に寄り掛かって泣きあっていた私たちを、人はどんなふうに思ったであろうか。今になって思うと恥ずかしくてたまらない。まったくおセンチな中学生であった。この日につけた日記が今でも残っているが、読むたびにくすぐったい気持ちになる。
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