■ 思い出の黒船祭(5) ■ |
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千代丸さんのこと
■ 1968年(昭和43年) |
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お吉は女盛りの千代丸ねえさんが、そしてお福は桃千代さんが演じた。お吉が得意だったという新内の「明烏(あけがらす)」を踊る千代丸さんは、師匠の藤間藤乃さんが作ってくれた明烏の柄が入ったうす紫の着物に身をつつみ、絵のようにきれいだった。 余興のあと、ねえさんはアメリカ人の間をお酌してまわった。コーラン大佐のところに来たときに大佐がたいへん感激してねさんの手を強く握りしめたという。「まあ、それはとても褒めてくれてね、きれいな日本語で」。昔気質のねえさんは、外人と話したのはこの時が初めて。鷹のような風貌の男らしさがプンプン匂う大佐に見つめられてポーッとしてしまった。何か話したかった、聞きたかった、アメリカの事とか、横須賀での暮らしを。しかしあまりにも時間がなかった。売れっ子芸者とスケジュールがびっしり組まれている海軍大佐との出会いはあっという間に終わってしまった。結局、千代丸さんはお吉にはならなかった。 千代丸さんは私と同じ弥次川っ子だ。かつて花柳界があったところ、現在、ペリーロードと呼ばれる一角にある芸者置屋の養女として育った。お披露目は15歳の時、陸軍のお偉いさんの前でもんぺを解いて作った着物で踊った。それからうん十年に長きに渡り、下田を訪れる国内外のVIPの接待してきた。 もうお座敷には出ていないが夏の太鼓祭りには体じゅうの血が騒ぐという根っからの祭り女。リウマチが出ているというのに、相棒の三味線片手に町じゅうを3日間練り歩く。お酒が大好き、とてもくだけているけど義理がたい、気はめっぽういいし口の堅い人でもある。私がいつも感心するのはその律義さだ。 部屋にある大きな仏壇の前には、頂き物のお菓子や果物が山と積まれている。いつも新しいご飯とお水が供えられている。近所のお獅子神社の掃除も欠かさない。かつては何人かの抱えっ子が広い家に一人で住み、どの部屋も整頓されている。「小さい頃はつらくて泣いた事もあったけど今は本当に感謝している。お養母いてこその、あたしだからね」と言う。観光地下田の発展を陰から支えてきた功労者、それが千代丸さんだ。 もちろん他にもたくさんいる。千丸さん、芳丸さん、富勇さん、月丸さん、児次郎さんなど。皆さん、骨身を惜しまず長い間働いてきた。市はこういう人たちにこそ感謝すべきだと思う。 |
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