■ 思い出の黒船祭(7) ■ |
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ミスター・タバタ
■ 1972年(昭和47年) |
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この年は大使が来ず、沖縄返還委員長カーティス中将が来席した、当日、基地の民事部長であるミスター・タバタを紹介され、彼の指導で動く事になった。 田端猛という日本名をもつ日系二世の彼は、その名の通り軍人出身らしい清悍な顔立ちで眼光鋭いものがあった。最初はこわい印象だったのが、一緒にお仕事をさせてもらっているうちにすばらしい方だと分かってきた。祭りの間、抜群の注意力とデリケートな気遣いを持って、ゲストがなんの不自由もなく過ごせるように神経を集中していた。特にご婦人方が少しでもソワソワする素振りを見せたら跳んで行くように、と言われた。通訳は目立ってはいけない、腰をかがめて黒子のようにと。 田端さんの指示は人に気持ちをつかむところがあった。簡単な事には日本語で指示し、私には不慣れだと思う事にはわざと早口の英語で喋った。口調は柔らかいものの、失敗は出来ないんだよという無言のプレッシャーをかけるのが上手だった。日本人が不注意に漏らす笑いに注意しなさい、笑いはデリケートなもので国によって違うから、と教えてくれた。そうやって私を鍛えてくれたのだと思う。とにかく針のような神経の人、それでいて一緒にいるととても頼れてリラックスする、不思議な人だった。 この縁で、ハネムーンの時にパサディナの自宅に招待されるほどの長いおつきあいをさせてもらう事になった。毎年下田に来ると喫茶に寄ってくれたり、私が友達を誘って横須賀基地の中にある彼のオフィスを訪ねることもあった。地味な田端さんからは想像できない広くて立派なオフィスだった。田端さんは大喜びで基地の中を案内してくれた。 丘に上がってオフリミットの場所まで見せてくれた。将校クラブでステーキディナーをご馳走になり、その後、百種類以上のカクテルを作ることで有名なそこのバーで飲んだ。私たちは、ビールだけで遠慮したが、田端さんはとてもゴキゲンでドライマティニを6杯も飲んでしまった。そして口の中でなにやらムニャムニャ言いながらソファに沈んでしまった。あの、なかなか笑わないクールな、60歳を過ぎた田端さんの赤ちゃんのような顔......。 その瞬間からその後何十年の長きに渡って私は彼の弱みを握ることが出来たのである。 |
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