■ 思い出の黒船祭(9) ■ |
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■ダンシングマン■ 1982年(昭和57年) |
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いや、トイレでも踊っていたかもしれない。「船では禁止されていたので踊りたくてたまらない。許してほしい」と言うのだった。もちろん反対する理由はないから私と夫はカウンターごしにショウをたっぷりと拝見する事にした。 マイケル・ジャクソンのディスコビートに乗ってマーティは水を得た魚になった。全身から汗を噴き出し、足を額まで蹴り上げたり、ベリーダンスよろしく、腰をくねらせたかと思うと次の瞬間、ロシアの伝説的ダンサー、ニジンスキーのように天井につくくらい跳んだ。その独創性は素晴らしかった。店内は大喝采だった。母と叔母も見ていたが、二人は踊りよりも「あの人、異常じゃない?あんたたち大丈夫?」と本気で心配していた。最初は唖然として見ていた仲間の水兵たちも、あいつはアホだ、とあきれていた。結局、マーティは店の閉店時間まで踊り続けた。そして、息も絶え絶えのマーティは一杯のお水を飲み干すと椅子に座り、話し始めた。その口もダンス同様、絶え間なく動くのだった。 彼の話によると若いながら波乱万丈の人生を送ってきたようだ。5歳の時にに両親が離婚し、彼のお母さんは日系企業の工場で働きながら一人っ子の彼を育てたが、ある日、バーで知り合った男性と駆け落ちをしてしまったという。そのため彼は中学までボーイズハウス(少年孤児院)で過ごす。17歳でそこを出るとすぐに結婚したが仕事も転々として落ち着かず、2,3年で離婚したという。だが心機一転、ダンスが好きだった彼は勉強して大学に入った。それなのになぜ中退して海軍に入ったのか疑問だが、そのへんの事情はあまり話したくないようだった。ただ一言、生活を変えたかったから、と言っていた。 ところで、私はボーイズハウスがどんな辛い場所か知っている。アメリカにいた頃、学校の授業でその施設を見学した。盗癖のある子、捨てられた子、前科のある子などが収容されていた。そこは矯正施設というより、子供たちによる弱肉強食の世界だった。うつろで、寂しそうだった子供たちの目は忘れられない。そのせいだろうか。私にはマーティが立派に更正した子供のように思えたのだった。 |
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