■ 村山邸 ■

■ 吉田松陰萬寄所 ■
静岡県史跡
■ 吉田松陰萬寄所(よしだしょういん ぐうきしょ)
昭和16年10月27日指定
 嘉永7年(1854)3月18日、米国ペリー艦隊を追って下田に到着した、吉田松陰(よしだ しょういん)、金子重輔(かねこ じゅうすけ)は役人の目を逃れるため、それぞれ”瓜中万二”、”市木公太”と名を変え岡方村(現在の下田市4丁目付近)の岡村屋に宿泊し、米艦に便乗しての海外密航の機会をうかがっていた。

 当時皮膚病をか患っていた松陰は、温泉による治療のため、この蓮台寺を訪れ、向かい側にある共同湯(上の湯)で夜を明かそうとしていた。そこで偶然この家の主、村山行馬郎(むらやま ぎょうまろう)医師と知り合い、その好意によりしばらく村山邸に身を寄せることになった。松陰等は3月27日深夜、柿崎の弁天島付近から小船を出し米艦に漕ぎつけて便乗を懇請したが断られた。

 企ての発覚を覚悟した松陰はいさぎよく自主し捕らわれの身となり、4月11日唐丸籠で天城山を越え、江戸伝馬町の獄へ送られた。

この村山邸は、松陰の居間として使われた2階の天井の低い部屋(隠れの間と言われる)や、掘り下げられた内湯の浴槽がそのまま保存され、松陰が使ったと伝えられる机や硯箱とともに、幕末開港時の秘話の舞台となった松陰隠れ家の面影を残している。

 平成8年3月

下田市教育委員会


吉田松陰(1830年〜1859年)は、

 長門国萩松本村で長州藩下級武士の子として生まれました。幼少より秀れ、日本の伝統的学問を修め、後に洋学を学びます。佐久間象山に傾倒、幕末日本におかれた情況を憂慮し、国内にあっては諸外国の圧力に対する準備をし、同時に外国の事情を知ることが急務と考えました。1853年長崎に来航中の露艦で密航を企図するも果さず、翌年下田に来航したアメリカ・ペリー艦隊に金子重輔と共に渡航を企てたが拒まれます。

志敗れ自首、江戸送りとなり、後に野山獄につながれます。

1859年江戸で刑死、わずか30才でした。

この建物は、静岡県指定史跡となり、今でもその当時の様子をそのままに伝えています。

今でも下田港の柿崎には、吉田松陰像や下田市教育委員会前に吉田松陰が拘禁された場所に、石碑が残されています。

また、豆州下田郷土資料館には、松陰の資料や牢屋の再現で、下田での松陰の行動が詳しく説明されています。
 館内には、吉田松陰の25才の時の肖像画があります。

この肖像画は、日本画家の熊沢観明画伯が描いたもので、松陰が筆を持って、書き物をしている姿が描かれています。
 ペリーの艦隊のそれぞれの船の名前が入った下田港のマップや当時使われていた品々が展示されています。
 狭い階段を登った2階が、松陰らが隠れていた部屋となります。京間の8畳ですが、思ったよりも狭く感じられ、天井も低く、外から見ると、2階があるようには見ません。

ここには、以下のように書かれています。
「松陰隠れの間」

 嘉永7年3月18日、黒船に便乗のため下田に到着した松陰先生は、折しも下田奉行所の厳重な警戒の為泊まる処もなく、やむなく共同風呂で夜を明かしていた。夜中にこの様を見た村山行馬郎医師は内緒で自宅に泊めたが、行馬郎医師の人柄を信じた松陰先生から自分の企てを打ち明けられ、初めは大いに驚いたが、黒船乗り込みまで、お世話しようと2階に隠まいました。この2階は外から見えず、普段は階段を外し天井板を引くと全然分からなくなってしまう仕掛けになっていて、松陰先生は昼は2階に隠れ、夜は海岸に出て黒船の様子を窺っていました。
  • 見学時間:
    午前9時〜午後5時
  • 見学料金:
    一般  100円
    小中学生 50円
    団体(30名以上) 1割引
     
  • 休館:毎週水曜日
  • 場所:下田市蓮台寺
  • バス停:大沢行き”弥五平口”下車徒歩1分
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