■下田のおいたち■

■下田という地名の由来
 下田という地名の由来は、二つの説があります。
  • 本郷の下にできたので下田
    下田には、本郷という町名が今でも残っています。先にその本郷ができ、その下に出来た田だったので、下田という名になった。という説。

  • 上田・中田・下田
    波が打ち寄せ、芦が生い茂る場所にできた田を下田(げでん)と言ったので、これが下田(しもだ)となったという説。



    江戸時代の元禄13年(西暦1700年)に、八幡神社の裏山から掘り出された鰐口に”下田村若宮”という名が残されていることから、南北朝・室町初期の14世紀が下田村の成立した時期と考えられています。
■下田の誕生
 さて下田は、どのように、生まれたのでしょうか?

 下田の沖に浮かぶ神子元島(みこもとじま)は、下田と石廊崎を結んだ三角形の形をした半島の一部でしたが、陸地が沈んだり、波にけずられたりして、高いところが残って、島になったのだそうです。

 反対に、須崎半島は、海の底がもり上がって、陸地になりました。そして、赤根島との間に、深くいりくんだ谷を作って、下田湾が、生まれたのだそうです。

 そのころの海岸線は、武山や下田富士の麓あたりでした。今の下田の八幡神社の境内、下田小学校の付近は、波がうちよせていた砂浜で、稲生沢川の川口は、ずっと奧の方にあったようです。

稲生沢川は、流れがはやく、そのために、毎年、幾度となく大水を起こしました。そのたびに、山をくずし、深い谷をけづり、岩や土を下流に運んで、河内付近の平地を作り、最後に、川口近くの海岸をうずめていきました。

 大賀茂も、稲生沢川と同じように、入江の低い土地をうづめて、吉佐美の平地を作りました。

 大昔の人達は、今から数千年ほど前、伊豆の各地に住み着きました。下田の近くでも、日当たりがよく、食べ物や、水のえやすい稲生沢川や大賀茂の近くの丘や山の上にも住むようになりました。

 稲作農業が行われるようになると、人々は、平地の近くに移って、そこに、水田を作り、集まって生活するようになりました。

 このようにして、稲生沢川の川口近くの土地に、はじめて、「むら」ができたのは、千数百年前のことです。この「むら」の名を、「本(ほん)もとの郷(むね)」ということで、「本郷(ほんごう)」とつけました。

稲生沢川は、この後も、毎年大水をおこして、山から多くの土や砂を運び、海岸に向かって、陸地を広げていきました。

 そのことの人達は、ここを開墾して、新しい水田を作り、そこを「新田」と呼ぶようになりました。

  また、川口の州にも、漁業に便利なので、人々が移り住むようになって、そこを、「州のさき」ということから「すさき」(須崎町)と名付けました。

稲生沢川は運んだ土や砂でつくられた新しい土地は「ささ」や、「あし」がいっぱい生えた原で、ところどころに、「ぬま」や池もあったのでしょう。昔の人達は、これらの新しい土地にも、水田を開いて、そこに住むようになりました。

 古い町名の「原町」・「中原町」・「池の町」などの「はら」・「なかばら」・「いけ」の名も、そのなごりでしょう。

そして、今からおよそ六百年前、これらの新しい土地がまとまって、本郷から分かれて、一つの村になりました。この村の名は、本郷よりも「下(しも)の田」であることから、「下田」と名付けられました。

 また、今からおよそ三百六十年前(江戸時代)になって、そこに住む人の身分によって名付けられた殿小路(身分の高い武士が住んだ)や、同心町(同心などの役人が住んだ)、住んでいた人達の仕事によって名付けた紺屋町(染め物)・町店町(商人)・大工町(大工)などの町名もできました。
■昔の下田地名図

(下田年中行事巻20より)
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