■ロシアからの黒船■

■プチャーチンの来航
 1854年、ペリー艦隊が下田を去って4ヶ月後、ロシアのプチャーチン提督が、皇帝ニコライ一世の命令でディアナ号に乗って来航しました。当時ロシアは、イギリス、フランス両国との間で戦争中でしたが、アメリカが日本と和親条約を結んだことを知り、危険を冒して来航し、条約締結を求めて来たのです。条約の内容は、水や食料の供給と千島列島の国境問題の解決にありました。プチャーチンは、数多くの苦難を乗り越え、下田の長楽寺で日露和親条約を締結しました。
■ディアナ号
 プチャーチン提督の乗艦ディアナ号は、当時の帝政ロシアの最新鋭の軍艦でした。長さ52メートル、2,000トンの木造帆装戦艦で、大砲52門を搭載、乗員500名、その艦首にはロマノフ王朝の権威を象徴する双頭の鷲(ワシ)の紋章が金色に輝いていました。

・関連リンク(参考)--ディアナ号に乗船していた「マホフ神父」に関連したページです。
■日露和親条約
 1854年、下田の長楽寺でプチャーチンと幕末全権の筒井政徳、川路聖謨との間で日露和親条約が結ばれました。9カ条の本文と4カ条の付録からなっています。内容は、ペリーとの条約とほぼ同じですが、北方4島を日本領とする領土のことが定められています。
■安政の大地震による大津波
 1854年11月第1回目の日露交渉が福泉寺において開かれ、双方の主張が述べられた。その後第2回目の交渉を約束後、不運にも翌日(11/4)午前に大地震が発生し、大津波が下田をおそいました。(安政の大地震)何度かの津波と引き潮により、ディアナ号は、42回も回転したと言われています。そのためディアナ号は、自力航行不能になり、西伊豆の戸田(へだ)へ修理のため曳航中、風と波により数百隻の救助活動もむなしく、ついに宮島村沖で沈没してしまいました。乗員約500人は、全員救助され戸田へ収容されました。それでも12月21日には長楽寺で日露和親条約が締結されたのです。今でもこのときの津波で犠牲となった人達を供養する”つなみ塚”が稲田寺に残されています。
■ヘダ号
 ディアナ号の沈没を知った戸田(へだ)の船大工と住民が協力して、天城山の木材を利用して新しく洋式船を突貫工事(約3ケ月)で造りあげました。(1855年3月10日)プチャーチンは住民に感謝して、この船の名前を”ヘダ号”と名付けて47人と共に帰国しました。この時の船大工”上田寅吉”と”鈴木七助”は、後に長崎伝習所に行き勝海舟と出会うことになります。また、”緒明菊三郎”は横須賀の浦賀ドックを造り、近代の造船業に大きな貢献をしました。
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