■玉泉寺■ |
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以下パンフレットからの抜粋です。 | |||||||||||||||||||||||
■縁起 | |||||||||||||||||||||||
曹洞宗瑞龍山玉泉寺は、天正以前は真言宗の草庵であったのを、天正の初め(1580年代)開山一嶺俊栄和尚の来錫によって曹洞宗に改宗され、現在に及ぶこと26世400年の歴史を有する古刹であります 嘉永元年(1848年)3月当山20世翠岩眉毛和尚の代に現在の本堂が落成しております。 嘉永7年3月日米和親条約の締結により、下田が開港され同年5月付録下田条約が結ばれると、玉泉寺は米人の休息所、埋葬所に指定されました。 その2年後、安政3年(1856年)タウンゼント・ハリス総領事は、通訳官ヒュースケンを伴い、米艦サンジャシント号で下田に着任しました。ハリスは玉泉寺を日本最初の米国総領事館として開設。庭前に星条旗が掲揚され、以来2年10ヶ月、この玉泉寺は幕末開国の歴史の中心舞台となりました。 又、それ以前、日露和親条約の交渉の場となり、ロシア、ディアナ号高官の滞在や、ドイツ商人ルドルフの約半年に及ぶ滞在等々、開国の歴史を彩る貴重な寺歴があります。 尚、境内には、黒船(ペリー艦隊)の乗員5名の墓地とディアナ号乗員3名、アスコルド号乗員1名の墓地があります。 |
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■米国総領事館 | |||||||||||||||||||||||
安政3年8月5日(1856.9.3)ハリスは、この日よりサンジャシント号をはなれ玉泉寺に入る。ここに我が国に於ける最初の米国総領事館が開設された。 8月6日、玉泉寺境内に米国領事旗(アメリカ国旗)が掲揚される。この日の日記にハリスは次のように記している。 「・・・旗棹が立った。水兵たちがそれを廻って輪形をつくる。そしてこの日の午後2時半に、この帝国におけるこれまでの『最初の領事旗』を私は掲揚する。厳粛な反省一変化の前兆一疑いもなく新しい時代がはじまる。敢て問う、真の日本の幸福になるだろうか?」 ハリスのあらゆる苦心はこの日から始まったのである。 |
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■第39代アメリカ合衆国ジミー・カーター大統領御来訪 | |||||||||||||||||||||||
昭和54年(1979年)6月27日、ジミーカーター大統領は、ロザリン・カーター夫人、エミリー・カーター嬢を伴い、玉泉寺を御訪問下さいました。 ハリス記念碑、本堂を御見学なされ、黒船ペリー艦隊将兵墓地をお参りなされました。 |
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■ハリス記念館 | |||||||||||||||||||||||
当記念館には、タウゼント・ハリスが領事館当時愛用の遺品や関連資料、古文書等が多数展示してあります。特に柿崎村名主 浜田与平治の日記は、領事館当時の出来事を正確に伺い知ることが出来ます。 又、黒船来航時、下田港に於いて踏海の企を起こした吉田松陰先生の遺品や、ヒュースケンに使えたおふくの遺品、ロシア、ディアナ号将校モジャイスキー撮影の日本最古の銀板写真、その他多数の資料を展示する幕末開国の第一級の資料館であります。 |
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■タウゼント・ハリス略歴 | |||||||||||||||||||||||
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