■唐人お吉■

 17才で下田奉行所支配頭取・伊差新次郎に口説かれて異人(ハリス)の侍妾(じしょう)となり、大きく人生が変わりました。ハリスに仕えた期間は、ほんの僅かでしたが、お吉は、「唐人」とののしられ横浜に流れ、後に下田へ戻って小料理屋「安直楼」を開きましたが、酒に溺れて倒産。明治24年3月27日の豪雨の夜、遂に川へ身を投げ、自らの命を絶ってしまいます。波瀾にみちた51年の生涯のあまりにも哀しい終幕でした。この事件は、幕末開国に伴う一悲話として、小説にもなり、今では舞台での上演などもされています。
本名:斉藤きち
以下「宝福寺書」より抜粋。お吉の説明文です。
 お吉は本名を「斉藤きち」といい、天保12年11月10日、愛知県知多郡内海(うつみ)に、舟大工市兵衛の次女としてこの世に生をうけました。4歳のとき家族が下田に移り住み、14歳で芸妓(げいこ)となりました。新内明烏(しんないあけがらす)のお吉とうたわれるほどの評判と美貌でしたが、それが奉行所の目にとまるとこととなり、17歳の時、法外な年俸と引替に心ならずもアメリカ総領事タウンゼントハリスのもとへ侍妾(じしょう)として奉公にあがることとなります。その後は、幕末、維新の動乱の中、芸妓として流浪(るろう)の果てに下田にもどり、鶴松と暮らし髪結業(かみゆいぎょう)を始めますが、ほどなく離別。さらに小料理屋「安直楼」(あんちょくろう)を開業しますが、2年後に廃業しています。「唐人」という相も変わらぬ世間の罵声と嘲笑をあびながら貧困の中に身をもちくずし、明治24年3月27日の豪雨の夜、遂に川へ身を投げ、自らの命を絶ってしまいます。波瀾にみちた51年の生涯のあまりにも哀しい終幕でした。
お吉は身よりもなく、宝福寺の第15代竹岡大乗住職が、慈愛の心で法名「釈貞観尼」(しゃくじょうかんに)を贈り、当時境内に厚く葬り、その後芸能人により新しく墓石も寄進され現在に至っています。
お吉の悲劇的生涯は、人間の偏見と権力、その底にひそむ罪の可能性と愚かさを身をもって私達に教えているようです。

■ 鶴松 ■

お吉の夫。本名:川井又五郎。鶴松は幼名。下田市内の稲田寺に墓があります。

■ お吉ケ淵 ■

 ここがお吉が最後に身を投げた下田蓮台寺の稲生沢川の淵です。

■ お吉祭り ■

 毎年、身を投じた命日(3月27日)には、下田芸者やフラワーミッションの若い女性により、ここでお吉の法要が行われます。(お吉祭り) また、「宝福寺」には、お吉のお墓があり、観光の名所となっています。毎年3/27には、宝福寺で芸能大会が行われ賑わいます。
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